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伊都国について
伊都国とは中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する国です。「魏志倭人伝」には今から1800年ほど前(2〜3世紀頃)の日本の様子が書かれています。わが国の様子を克明に伝えた最古の書物です。それによると、当時、国内には邪馬台国をはじめとして30以上の国々があったとされており、そのひとつが伊都国とされています。
伊都国は現在の福岡県前原市を中心に近隣の二丈町、志摩町、福岡市西区の一部まで含む糸島地方に存在したと考えられます。現代でも前原市には「怡土」と呼ぶ地域が残っています。「伊都」の地名は時代によって少しずつ文字を変えながらも、その響きを現代まで伝えてきた歴史の重みを感じさせる地名といえます。
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伊都国の特徴
「魏志倭人伝」とは、中国の晋の時代に陳寿という人があらわした『三国志』という歴史書の中の一節です。『三国志』は魏、呉、蜀の三国時代約60年間の出来事を記したもので、その完成は西暦280年前後とされています。その中の「巻三十 魏書 東夷伝 倭人の条」に2〜3世紀の日本列島についての二千字におよぶ記載があります。最も有名なのは女王卑弥呼が登場する邪馬台国についての記載ですが、この女王国は現在でもその所在地について諸説が展開される謎に包まれた国です。
これとは対照的に、伊都国は朝鮮半島から邪馬台国に到るまでに通過する国として登場し、末盧国と奴国との中間点に位置すると記され、その所在地がここ糸島であることは衆目が認めるところです。所在が明らかな国であるがために、その歴史的重要性は計り知れないのです。
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魏志倭人伝とは
「魏志倭人伝」には伊都国について他の国々にはみられない特徴的な記述が大きく4点あげられています。
1つ目は代々オウによって治められていたことです。これまでに三雲南小路王墓、井原鑓溝王墓、平原王墓など、歴代のオウの墓が発見されていることはこの記述の正確さを物語っています。
2つ目は、邪馬台国から国を管理するための長官の他、副官が2人配置されていたことです。他の国々では副官は1人であることから、他の国々よりも伊都国の管理体制に気を配っていたが読み取れ、伊都国の地域的重要性を示す資料として重要です。
3つ目は邪馬台国から派遣された一大率が常に駐在していたことです。他の北部九州の国々は一大率を恐れていたとされ、この一大率が外国から邪馬台国への親書の検閲や土産物の検査なども行なっていたとされています。
最後に外国から来た使者は邪馬台国の女王に謁見する際には常に伊都国に滞在していたことです。伊都国には国賓をもてなす迎賓施設があったと考えられます。
上記から伊都国は、邪馬台国傘下の主要国のなかでも、わが国と中国、朝鮮半島地域との外交の窓口として、また、北部九州の国々を統括する重要な役割を担ったと考えられています。「魏志倭人伝」に記された伊都国、その実態はどんな様子だったのでしょうか?
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伊都国の現状
これまではおぼろげであった伊都国内の様子が 近年盛んになった発掘調査で徐々に明らかになりはじめました。弥生時代〜古墳時代の遺跡からは中国、朝鮮半島からもたらされた遺物が次々に出土しています。御床松原、上鑵子、三坂七尾遺跡からは中国新代の貨幣である貨泉が、深江伊牟田遺跡や、三雲・井原遺跡では朝鮮半島製の土器が多数見つかっています。また、西日本地域各方面との交流をうかがわせる土器や木器、青銅器なども多数出土しており、様々な地域との幅広い交流があったことがうかがえます。
伊都国の王都は糸島平野の中央に位置する三雲・井原遺跡です。集落部だけでも総面積60ヘクタールを超える国内最大級の集落遺跡で、遺跡の南端には三雲南小路、井原鑓溝王墓などが発見されており、まさにオウが住む都でした。歴代王墓からは多数の銅鏡をはじめとして舶来の貴重な副葬品が数多く出土しており、伊都国の繁栄ぶりや王の権勢を如実に物語っています。三雲南小路王墓は一辺30メートルを超える弥生時代最大級の墳丘墓であることもわかり注目を集めました。
今後も伊都国の解明のため、当地の発掘調査には目を離せません。
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